THE BOYS ARE BACK IN TOWN

ELLEGARDENとの思い出なんてなにもないと思っていた。

そんな私が復活ライブを観に行くなんて恐れ多くてとても申し訳なくて、昔から待っていた人たちに行かせてあげるべきなんじゃないかって本気で思っていた。

でも「自分の好きを貫けばいい」って背中を押してもらって観に行く勇気が出た。


「No.13」のイントロが鳴り響いた瞬間、私の頭の中にある記憶が蘇った。

初めてエルレのライブ映像を観たとき、画面の中の4人があまりにもかっこよくて眩しくて、どうして自分は今まで知らなかったんだろう、もうこの頃の彼らを見ることはできないんだと感じたときのなんとも言えない悔しさでいっぱいの感情。

あのとき何度も聴いた「No.13」が目の前で演奏されている。画面の中の世界、イヤホンの中の世界でしか知らなかったELLEGARDENが目の前にいる。あのときの悔しさが一気に報われるような気がした。涙が止まらなかった。

 


思い出なんてないと思っていた私にも、ちゃんと思い出があった。

 


初めて観るはずなのに不思議となんだか懐かしくて、どの曲を聴いてもELLEGARDENとここにいる1人1人のための曲にしか聴こえなくて、いつか一緒に歌うのが夢だった「Make A Wish」の大合唱には涙で声が詰まって、それでも歌って


一生忘れられない日になりました。

どんなに出会うのが遅くても、ちゃんと彼らを見つけて出会うことができた自分を褒めてあげようと思います。

 


同じ時代に生きられてよかった。

復活おめでとう

 

2018年8月15日

 

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沖縄旅行記④

2月23日(金)

この日は丸1日ゆっくりしようと初めから決めていた。

ゲストハウスにいる犬と散歩したり、近くにある「わんさか大浦パーク」でマングローブの遊歩道を歩いたり、帰りに通った集落のおばあと立ち話したりとまさに理想の沖縄時間を過ごした。

この辺りは過疎化、高齢化の進む集落で、近くにあった学校もなくなってしまっている。少し離れたところにカヌチャリゾートのホテルがあり、広大なゴルフ場がある。(辺野古にいる機動隊はここに泊まっているらしい、、、)

明日は沖縄最終日。どこに行こうか考えながら、正直「辺野古はもういいかな」と思っていた。行ったことには行ったし、あとは楽しいことをして終わりたいという気持ちだった。しかしゲストハウスのある瀬嵩から那覇へ戻るのに辺野古は通り道だし、なにしろ交通の便が悪いから一旦辺野古まで出てしまった方が楽ではある。次いつ来れるかは未定なのだからせっかくなら辺野古で多くの時間を過ごそうと思い、翌日はバスの時間まで辺野古にいることにした。

その日は偶然にも前日辺野古で会ったミュージャンの方が泊まりに来られたため、翌日辺野古へ行くメンバーは私を入れて3人になりとても心強かった。

 

2月24日(土)

4日間お世話になったゲストハウスの宿主にお礼を述べ、3人で辺野古へ向かった。ミュージャンの方はまだ滞在されるらしく、22日から共に行動していた女性は那覇に戻られるということで辺野古から一緒に那覇まで帰ることになった。

辺野古に着いたのは8時すぎ。すでにゲート前で待機しておられる方がいたので挨拶し、テントに荷物を置きに行ってから私たちも座り込みに行った。

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土曜日は搬入の回数が少ないことが多く、この日も9時の搬入はなかった。ゲート前に座り込んでこの日の集会が始まった。この日は元那覇市議会議員の衆議院議員や、琉球国際大学の先生でアメリカから日本に帰化したという男性も座り込みに来られておりそれぞれお話をされていた。搬入はなかったが護岸工事は着々と進められているため、辺野古の浜にあるテントに移動して抗議活動をすることになった。

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(2日目の21日に連れてきてもらったのと同じ場所。)

 

この時も工事中の沖に向かって抗議のカヌーが出て活動しているらしかった。フェンスの向こうで動くクレーンに向かって、シュプレヒコールが始まる。

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(金網から覗いた先に見える新基地の工事現場)

 

機動隊による強制排除などはないため比較的平穏な抗議活動だったが、私の頭には先日見た光景がありありと蘇った。呼びかけている内容はほとんど同じだからだ。辺野古にいる間に仲良くなったAさんという男性が近くにいたので、その人にこの光景を見てどう感じたかを話しているうちにまた涙が止まらなくなった。Aさんは泣き続ける私にずっと優しく話しかけてくれた。

Aさんは一風変わった見た目をしていて、抗議の仕方も他とは少し違っていた。前回あまり述べられていなかったが、抗議側は機動隊や警備員に抗議するだけではなく、工事車両に向かっても「違法工事に加担するのをやめろ」と訴えている。Aさんはいきなり「出ていけー!」と言うのではなくまず対話することが大事だと考え、ゲート前にできたダンプの列の方へ1人で歩いていきダンプの運転手に1人1人挨拶をして回っている。そうすると運転手の人と自然と仲良くなり、本音も聞けるという。

米軍基地を作るために雇われているのは沖縄の地元の工事業者だ。工事に加担する人の中にも、今の政権に不満を持つ人や本当はこの仕事をやりたくない人もいる。同じくらいの給料をもらえるなら別の仕事をしたいと考える人もいる。みんな犠牲者なのだ。そのような話を、Aさんだから知ることができた視点で私に話してくれた。このような人が辺野古にいたのは私にとってとても安心できることだった。誰もが(仕方なしにではあるが)見ず知らずの人を憎もうとしているのではないということを知れたからだ。

気づけばあっという間に時間は過ぎ、バスに乗らなければならない時間になった。私はAさんと別れ、ゲート前の人々に何度もお礼を言い、「また来ます」と約束してバスに乗った。

 

那覇まで行く路線バスに乗りながら、辺野古での出来事を思い出していた。Aさんはマザーテレサが言ったという言葉を教えてくれた。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」ということだ。辺野古で抗議をする人々は米軍基地建設に加担する人々を憎んでいるし、それに対して右翼の人々は抗議側を憎んでいる。だが憎しみの感情を持っている以上は「無関心」ではないから、愛に近いというのである。なにかの意思を表現するためには喜怒哀楽で示さなければならず、その中では「怒」はあまり良くないけれど、「無関心」よりかは「怒」を表現した方がいい。

この言葉を聞いて私の今回の旅が全て報われるような気がした。少しでも関心を持って現地に足を運んだことにはちゃんと意味があったと思うことができた。そして私が伝えたいのはそういうことだ。

こうして私の初めての沖縄1人旅は幕を閉じた。

 

このブログを読んだ人が戦争や米軍基地に対して賛成だとか反対だとかは、私にとってあまり大きな問題ではない。それよりもこのことをなにも知らない人に少しでも関心を持ってもらいたいと思っている。特に私と同世代の若い人が関心を持つことが必要である。だからこの旅行で学んだことを文章にまとめようと思った。

どうか少しでも多くの人に届きますように。

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沖縄旅行記③-「私」が見てきた辺野古

2月22日(木) 猫の日🐱

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(瀬嵩にあるゲストハウス「海と風の宿」のミャオちゃん。)

 

この日は朝から辺野古のゲート前に行き、座り込みに参加した。ゲストハウスに同じように座り込みへ行く年輩の女性がいたため、その人に同行させてもらった。

ゲート前に着いたのが朝9時。ちょうど工事車両の搬入が始まったときだった。私は抗議が行われているのを道路の反対側から見ていた。

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数え切れないほどたくさんのダンプカーやコンクリートミキサー車が列をつくり、道路は交通渋滞を起こしている。反対派の人々はマイクで呼びかけたり太鼓や銅鑼(?)を鳴らしたり、プラカードを掲げ叫んだりして抗議している。

初めてその光景を見た私の率直な感想としては、抗議する側の方がかなり無茶をしていると思った。たぶん何も知らない人が見たら、反対派は工事の邪魔をしている迷惑な集団にしか見えない。マイクや拡声器を使って叫ばれている言葉も、暴言とまではいかないが決して綺麗な言葉とはいえない。抗議活動の中警備会社の人たちは淡々と搬入と基地内からの搬出を続ける。全てのダンプが出てゲートが閉められるまでに約1時間がかかった。

 

基本は1日に9時、12時、15時の3回工事車両の搬入がある。木曜日や土日はなぜか2回の場合が多く、日によっては工事が休みのときもある。座り込みによる抗議活動の流れは以下のとおり。

搬入時間前になるとゲート前に並んで座り込む↓

中から機動隊が出てきて警告する(工事の妨げになるからどいてください、従わないようなら排除します、的な)↓

工事車両が来る↓

搬入の邪魔になる人を機動隊が「ごぼう抜き」(機動隊が両手両足を掴んで引きずり出す)にして排除、檻のようなものの中に入れる↓

残りの人は警備会社の人が取り囲む↓

ダンプが中に入る、このあたりで檻に入れられた人が解除される↓

中から出てくるダンプが全て出たらゲートが閉じられる

 

搬入の度に反対派の人はゲート前に座り込み抗議をする。その度に機動隊に排除され、檻の中に入れられる。

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(使用前の檻)

 

その日1回目の搬入が終わるとゲート前テントに戻り、勉強会や報告会のような集会が行われた。この日は沖縄県内のいくつかの地域から、抗議に参加する人のためのバスが出ていたため、各地域の代表者からの挨拶があった。署名の協力を募る紙なども配られた。

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(テントの中には辺野古の自然やこれまでの抗議活動、米軍による事故などを伝える写真や新聞記事を掲示したコーナーもある。)

 

次の搬入を待つ間、人々は昼ごはんを食べたり交流したりして自由に過ごしている。抗議の参加者はほとんどが年輩の方で、若い人は20代後半くらいの女性が1人と小さい子どもを連れたご夫婦が1組と私くらいだった。このような活動に対する若者の関心の薄さをひしひしと感じた。しかし学生や働いている世代の人が平日の朝から行う活動に参加できないのは当然であり、必然的に退職後の年齢の人が増えてしまうのも納得できた。

この日は参加者にミュージャンの方が何人かおられたため、三線二胡が演奏されテントは穏やかな雰囲気に包まれた。またみんなでカチャーシーを踊りながら「辺野古新基地絶対反対」と歌詞に乗せて歌ったりと、終始明るい雰囲気が漂う。

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私はその楽しげな雰囲気を見ながら、なんとも言えない複雑な気持ちになっていた。過酷でつらい座り込みの合間にこのように明るく騒いでいることのギャップがすごかった。辺野古で起こっている問題は深刻である。抗議活動には重苦しい空気ばかりが流れているものだと思っていた。どうしてこんなに明るくいられるのだろう。どうして歌を歌う余裕があるのだろう。そのときはあまり理解ができなかった。

 

この日は12時の搬入がなかった。(抗議活動をまとめている本部が辺野古から離れた工事車両の通り道に見張りを置き、その時間の搬入の有無を調べている。) テントにいた人々は15時の搬入に向けて14時30分ごろから移動を始めた。先程は道の向こうから見ていただけだったが、今回は私も座り込みに参加する。

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(座り込み開始直前の様子。真ん中の紺の車が移動しゲートが開く。すでに座り込んでいる人が何人かいる。2月24日撮影)

 

コンクリートブロックに木の板を載せたベンチのようなものに座るのだが、私が向かうとゲートの正面の最前列しか空いていなかった。初座り込み参加なのにかなり目立つ場所に来てしまってドキドキした。

 

私が初参加だからかわからないが、今回マイクを持つEさんという女性が抗議活動の流れを説明してくださった。また「こんなことをして何の意味があるのかと言う人がいるが、私たちが座り込まなければいつでもダンプが入ることができて工事の進行はもっと速くなる。だからこうして毎日座り込んで時間稼ぎをしながら、工事を止める努力をしている」ということを教えてくださった。これを聞いて私はかなり納得できたし、この活動の意味を見いだせた気がした。

道路に座り込む自分の間近を通り過ぎていく一般車両。ゲートの前に待機するサングラスにマスクの警備員。私はかなり緊張していた。このあと機動隊の大人の男性に引きずり出されると考えるだけでも怖かった。するとEさんはマイクでこのように呼びかけた。

「あと数分で工事車両が来ます。この数分間は誰だってドキドキするし怖いと思います。だからそういうときはみんなで歌いましょう。」

ミュージャンの方の三線がゲート前に鳴り響き、演奏されたのは『安里屋ユンタ』。有名な沖縄民謡で観光客向けの沖縄料理店などでもよく演奏されているものだ。私は観光旅行で沖縄に来るたびに、この曲が本当に楽しく歌われるのを聴いていた。まさかこの曲をこんな場所で聴くことになるなんて。私は胸が詰まって歌えなかった。前日に聞いたひめゆり学徒隊の話が頭をよぎった。つらい病院壕生活の中、歌うことでつらさを紛らわそうとしたという姿がゲート前の人々と重なった。道路に座り込んでプラカードを持ち、手拍子をしながら『安里屋ユンタ』が明るく元気に歌われた。それは今まで聴いた中で一番悲しい『安里屋ユンタ』だった。私はもう涙を堪えきれず、真ん中から端の方に隠れるように移動した。ちょうど道路の向こうからダンプがやって来たときだった。涙が止まらなかった。

移動してきた場所は機動隊に排除されない場所だった。それでもいつの間にか私と近くにいる人は警備員に取り囲まれていた。泣いている場合ではないと思い立ち上がってプラカードを掲げた。先程まで私がいた場所の近くにいた人が、次々と機動隊に排除されていく。両側から腕を掴まれ、足で粘ろうとすると足も持たれ、抵抗してもどんどん運び出されていくのを間近で見た。Eさんは道路の反対側からマイクで「乱暴はやめてください」「機動隊は本来の仕事に戻ってください」「違法工事をやめろー」と呼びかけ続けていた。

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抗議側の人は「非暴力」だが「無抵抗」ではないという姿勢をとっている。機動隊や警備員に向かってかなりの暴言を言う人もいれば、静かに罵る人もいる。それに対して機動隊や警備員はなにも言わないしなにも反応しない。この状況がひどく悲しかった。見ず知らずの人に向かって投げつけられる暴言に心が痛かった。 私は機動隊の人にも警備員の人にもなにかされた訳ではないし、なにか言われた訳でもない。なにも恨む理由なんてない。だから私はなにも言わずにプラカードを掲げ続けた。それでも飛び交う暴言と無表情の機動隊の姿に涙が絶えず流れた。

たしかに機動隊や警備員にこちらの主張をぶつけたところで、工事が止められる訳ではない。それでも基地建設に反対するためには、私たちを阻止しようとする目の前の人に抵抗するしかない。基地建設を決めた人でもない、米軍でもない、名前も知らない人に向かって抗議という罵りの言葉を投げつけないといけない。1日2回~3回、毎日これが行われるのに対処している機動隊、警備員の人たちはどのように感じているのだろうか。老害が騒いでうっとおしいぐらいにしか感じないのだろうか。もう毎日のルーティンになってしまっているのだろうか。自分たちが今している仕事を、自分の子どもたちに自信を持って言えるのだろうか。

ひどい言葉は言われた方も言う方も傷つく。私たちだってやりたくてこんなことをやってるんじゃない。辺野古移設がなければ、いやそもそも米軍基地がなければこんなことをする必要なんてないのだ。間違った工事に反対するためにはこれしか私たちにはできない。

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過積載のダンプがどんどん基地の中に入っていくのを見ながら、そんなことをずっと考えていた。その間も抗議の声は止まない。元高校教師だという白髪のおじいさんが、基地の中に向かって叫びつづけていた。今回もダンプの搬入と搬出が終わるのに1時間ほどかかった。

 

私はあまりにもずっと泣いていたのでもしかしたら変に思われたかもしれない。機動隊が怖かったからではなく、見ず知らずの人同士でこんなにもいがみ合わなければならない状況が悲しかった。人ってこんなにも分かり合えないのだと感じた。こんな経験は実際に辺野古に行かないと絶対にできなかった。

 

様々な気持ちを抱えてゲストハウスに帰った。宿泊客の人が辺野古から帰ってきた私たちにもごはんを用意してくれ、その優しさが身に染みた。この旅で良かったのは、しんどい中にも必ず安らぎを持つことができる環境だったことだ。

 

つづく

 

沖縄旅行記②-沖縄戦とその後

2月21日(水)

結局前の晩は浅い眠りで3時間ほどしか寝れなかった気がする。まだ薄暗いうちからゲストハウスを出発し目星を付けていた朝ごはん屋さんに向かうと、臨時休業。相変わらず絶好調だなとぶつぶつ言いながら、コンビニのパンを買い駅のベンチで食べた。

この日は沖縄平和ネットワークの方と、その方が琉球大学で教えている学生さん数人に、沖縄戦の戦跡と米軍基地を案内してもらうことになっていた。1ヶ月ほど前から連絡をとり相談に乗ってもらっていたが、見ず知らずの学生にここまで対応してくれたこの方々には感謝しかない。

南風原陸軍病院壕に行きたいと言ったらまさかの休館日。今思えばこの日はある意味ツイていた。。

それでも外側から見るだけでもということで連れていってもらった。

 

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南風原陸軍病院壕は南風原町にある黄金森という小高い森に作られた陸軍病院壕で、院長、軍医、衛生兵、看護婦、ひめゆり学徒隊がここに配属され、傷病兵の看護にあたった。

南風原は司令部のある首里の後方にあり、交通と物流の要所だったため陸軍病院が置かれた。泥岩(手で簡単に割れるくらいにもろい)を掘ってできた壕でとても崩れやすく、現在中に入れるのは第二外科の20号壕しかない。

 

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(20号壕。この日は中に入れず)

 

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(「飯上げの道」ひめゆり学徒がふもとの集落で炊事をした食事を壕まで運んだ道。銃撃や砲弾をくぐり抜け山道を登るのは危険と隣り合わせで、途中で亡くなったひめゆり学徒も多い。)

 

後に戦況の悪化から病院は移動し、病院関係者や学徒隊、動ける患者たちは南へ南へと撤退していく。現在の「ひめゆりの塔」がある方面である。

現在は崩れて埋もれ地形が変わってしまったが、当時はもっと下まで続いていたという「飯上げの道」を歩きながら、この決して楽とは言えない山道を砲弾の中私よりも若い女学生たちが登ったと思うと、胸が締めつけられるようだった。

 

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移動して糸数城址へ。ここは琉球王朝成立以前の権力者の城(グスク)といわれている。

ここの近くに10年ほど前までは大きな壕があったということで、突如始まった壕探し。以前の沖縄では軍や民間人の使った壕がそこら中に残っていたという。結局壕は見つからなかった。

 

再び移動して嘉数高台公園へ。

1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸し沖縄戦が始まり、4月1日には本島中部西海岸の渡具知(とぐち)に上陸した。嘉数は米軍の首里への侵攻を食い止めるための砦として陣地が置かれた。

 

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(嘉数にある「トーチカ」。元は正方形をしていたが1角が攻撃により崩れている。下半分が地中に潜っていて、出入口から中に入って2箇所ある銃眼から射撃したと考えられる。)

(2枚目は外から銃眼を覗いた様子)

 

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(陣地壕。トーチカの後方で、米軍の進路と反対向きに入口がある。)

 

この公園には軍関連施設の跡や石碑のほかに展望台があり、そこからは米軍海兵隊普天間飛行場が見える。

 

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(住宅地に囲まれた普天間飛行場。奥に少し見える海岸線の向こうが、沖縄戦で米軍が上陸した場所。)

 

この日は戦闘機の着陸が多く、私たちがいる間に2回も見ることができた。本土にいるとまず聞くことのない、ものすごい轟音だった。

 

市街地に飛行場を作る場合、滑走路から900mまでは利用禁止エリアで建物を建てることができず、4.5kmまでは事故危険区域として住宅や学校などがあってはいけないという米国内での基準がある。しかし普天間飛行場では、米軍の基地なのにそれが採用されていない。また普天間飛行場の航空機による墜落事故が後を絶たず大きな問題となっている。

普天間飛行場はこれらの危険性の除去を目的とした移設計画が進められているのだが、移設先の辺野古にあるキャンプ・シュワブではそれに反対する運動もあり近年問題になっている。

嘉数にいると戦中も戦後も米軍に影響を受ける沖縄の姿を同時に見ることができた。

 

次の場所へ移動する途中にオスプレイが空を飛んでいるのにも遭遇した。

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ガマに入りたいという私の希望から、次にチヂフチャーガマへ向かった。

ガマとは沖縄にある琉球石灰岩でできた自然洞窟のことで、 沖縄戦時には壕として多くの人が避難した。ここは貝塚遺跡でもあるらしい(だから大っぴらに戦跡巡りで来たらダメなんだとか、、、ごにょごにょ)。

 

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中はとにかく広い。今も茶碗のかけらなど戦時中のものが地面に落ちている。ただ戦後のものも多く混ざっているらしい。

スマホのライトをすべて消すと辺りは真っ暗になる。この中でロウソクの灯りのみで生活していた人がいたと思うと、その過酷さを感じる。この中にいると、何かわからないが外とは違う空気を感じる。ここで亡くなった人も当然いただろう。

しばらくすると地上のほうから轟音のようなものが聞こえた。航空機の音か普通の自動車が通る音かはわからないが、ガマの中にいてもこれだけの音が聞こえるとなると、戦闘中ここに逃げ込んだ人々の感じた恐怖は計り知れない。

このようなガマは今も沖縄中にたくさん存在している。

 

最後に向かったのは辺野古。私が次の日訪れるための下見を兼ねて連れていってもらった。

 

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エメラルドグリーンの海と砂浜(天気と写真の映り具合で綺麗さが全然伝わらない 笑)、その向こうで行われている埋め立て工事。

 

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立ち入り禁止の金網には工事反対のフラッグなどがたくさん貼られている。海岸近くにはテント村があり、2004年4月から座り込みが行われている。

この日はなぜか3台のヘリが辺野古の上空をぐるぐると飛び続けていた。

 

海岸から辺野古の集落を通ってキャンプ・シュワブのゲート前へ向かった。一般の方が今も住んでいる集落のため写真は撮っていないが、米軍キャンプの近くにある歓楽街として賑わっていたという面影がいくつも残っていた。横文字のバーが建ち並び、たまにすれ違う人もアメリカ人が多かった。

ここに住んでいる人々は辺野古基地問題について何も言わない、というか言えないのだという。基地のおかげで街が潤っていた時代もあれば、今も基地の恩恵で生活できている人もいる。そんな状況下においては反対だと大声で言うことはできないだろう。

 

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(キャンプ・シュワブ)

 

もう夕方だったためゲート前に抗議の人たちの姿はなく、ゲート前のテントで生活し24時間体制で監視する人たちのみだった。時々ヘリ同士でぶつかるのではないかと思うくらい接近して飛んでいるヘリたちを見ていると、「昼ごろからずっとだ」とテントにいた方に言われた。

私が明日ここに来ることを話し挨拶をしておいた。

 

同行していた学生さんと話をしていると、彼らも辺野古への移設は反対だが、基地で働いている友人もいるので一概には言えずとても難しいと話していた。

沖縄平和ネットワークの方が言っていたことでとても驚いたのが、日米合同委員会とその土地の地主の許可があれば米軍基地はどこにでも(沖縄関係なく)作れるということである。しかも軍用地主になると米軍に土地を貸しているということになるのでかなりの収入が得られるのだ。(おまけにそれは日本が払っていて全部税金…)

何が言いたいかというと、「米軍基地はどこにでも簡単に作れる」ということである。お金がもらえるならいいや と考えるか、騒音と事故の危険性に脅かされ、戦争が起こればそこから兵士を送り出す場所が自分の土地に存在することになる と考えるか、、、

 

辺野古問題の難しさを改めて考えさせられた。さらにこのことは翌日にも実感することとなる。

 

ありがたいことに宿まで送り届けていただき、その日の行程は終了。情報量の多さに頭がパンク寸前。

それでも確実に「沖縄まで来てよかった」と感じる1日だった。来てみないと体感できないことだらけだった。

 

残りの日程を過ごすゲストハウス着いてからも勉強になる話ばかり飛び出したが、それはまた書けたら書くことにする、、、_(:3」 ∠ )_

 

 

つづく。

(この調子で全日程終わるのか恐ろしくなってきた、、、)

沖縄旅行記①

「学生のうちにやりたいことをやらないと損だ」と思ったのをきっかけに私は沖縄1人旅を決意した。沖縄の「過去」と「今」起こっている問題について自分の目で見たいと思った。

 

2月20日(火) 初めて1人で飛行機に乗り、もう何度来たかわからない那覇空港に到着した。

 

 着いたのが夕方だったため、1日目は国際通り周辺を散策した。こんな店あったっけなあ、こんなに中国人韓国人だらけやったっけなあとぼんやり考えながら歩いた。初1人旅の初日でまだ浮ついていたのか行動が定まらず、すごすごとゲストハウスに帰った。

 

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(めっちゃ曇り。梅雨みたい)

 

1晩だけ泊まった駅近のゲストハウスは外国人だらけで、何か喋らないといけなくなったときに日本語より英語が先に出てしまうのがなんとも変な気分だった。そこでもかなりアタフタしていたので、宿泊客のヨーロッパ系の女性にまで心配されるハメに(笑)

部屋に帰ってもすることがないので、翌日の下調べをして持ってきた本を読んでから寝ようとしたが、相部屋の外国人たちの物音と部屋の暑さで全く眠れなかった。部屋にはなぜか空調がなかったため窓が全開で(網戸もない)、私が窓を閉めたら先程の女性(同室だった)に怒られた。暑いから開けてるのになんで閉めるの?!って(笑)

 

そんなわけでかなり不安な中、私の沖縄1人旅は始まったのだった。

 

 つづく。

(記憶ってものは時間が経つとどんどん忘れてしまって、あんなに鮮やかだったものがもうかなり色あせてしまっていて困る。もっと早いうちに書けばよかったけど今からでも遅くないはずなのでまとめます。どうぞお付き合いくださいm(_ _)m)

 

20180215:THE ORAL CIGARETTES

2017年6月16日、日本武道館のステージで大阪城ホールワンマンが発表されたときの割れるような歓声がまだ頭から離れなくて、

まだ遠い先のことだと思っていたのがあっという間にその日になってしまった。

 

会場に入った瞬間からただのライヴじゃないのは充分わかったけど、今までに観たことのないようなエンターテインメントを観せられた。

 

それでも彼らが歌うのは人間の闇の部分を全面に出した曲で、彼らが伝えるのは暗闇の中にも必ず一筋の光があるということだった。いつだって悔しさをバネにして乗り越えてきた彼らだから歌える曲だった。"楽しい"だけじゃなくて、深く自分と向き合うことや暗い部分にも目を向けること、そしてそれを知ることを正面から伝えてくれる。たくさんの若手バンドがいる中で、これほどストレートにメッセージを伝えることができるのはオーラルだけなんじゃないかと思った。

会いたい人には会いに行く、伝えたいことはちゃんと伝える。楽な道を歩くより苦しいしんどい道を歩くほうがきっと自分の強さになる。それらを自ら示してくれる彼らの生き方はずっと私の憧れだ。

 

ここまで辿り着くのにどれほどの苦労があったか、またどれだけ多くの人に支えられてここまで来れたかについて話し何度も感謝を伝える姿に、彼らが1歩ずつ階段を登ってきた成果が見えるようだった。

 

大阪城ホールで、メジャーデビューシングルで私がオーラルのことをちゃんと知るきっかけになった曲の「起死回生STORY」で金テープが舞うのを見るなんて、こんな日がくるなんて思ってもいなかった。

 

彼らならこれからももっと進化しながら進んでいけるし、新しい時代を創っていける。「ReI」のような曲でメッセージを発信し続けるのも彼らだから出来ることだ。

これからもついて行きたい、追いつけるように前に進んでいきたいと心から思えた日だった。

今日の彼らは世界一かっこよかったよ。ありがとう。

 

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20180214:BIGMAMA

※ツアー初日のためセットリストなど詳細については触れませんが、知りたくない人は読まないでください

 

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BIGMAMA 『TRANSIT MAMA TOUR 2018』恵比寿LIQUIDROOM

 

武道館で演奏しなかった曲が中心になるとアナウンスされたこのツアー。

1曲目から悲鳴にも叫びにも似た歓声があがり、フロアではモッシュダイブの嵐。しかし手拍子もお客さんの歌声も求めないし煽りもしない。今までならお客さんにマイクを向けていたところも、まるで歌わせないかのように自分で歌う。笑わないし曲が終わったあとのありがとうも言わない。フロアの盛り上がりが異常に感じるほどだった。

多幸感とか一体感ではなく、孤独さのようなものを感じた。なんて孤独なライブなんだろう。お客さんじゃない、ただただ曲に向き合っている。これまでのBIGMAMAのライヴとは明らかに雰囲気が違った。

でもそれが悪く働いているかというとそうではなく、突き刺さるようにかっこいい。演奏される曲も気持ちが高ぶるのを抑えられないようなものばかりだ。かっこいいのに、それでも心の奥が掴まれるように苦しかった。

 


MCなしでひたすら曲が続き、終盤に差し掛かったところでようやく1回目のMCで金井さんが話し始めた(結局MCはこの長めの1度だけだった)。心なしか表情が固いようにも感じたが、それでも金井さんの言葉を直接聞けたことで会場の雰囲気が少し穏やかになったようだった。私自身ものすごく安心してしまった。

MCが終わりその後披露された曲から明らかに会場の空気が変わった。ステージ上とフロアとがようやく繋がったように感じた。メンバー(又は金井さん)自身も、歌いまくるぐちゃぐちゃのフロアを求めていなかったのではないことがわかったので、暴れるフロアとの温度差もあまり感じなくなった(温度差を感じていたのは私だけだったかもしれないが)。

 

BIGMAMAの音楽には嘘がない。

これは私が武道館公演後に感じたことだが、今回でよりそれを見せつけられた気がした。でないとこんなにもドロドロした本音の出るような歌を歌えない。幸せな夢のような瞬間も、真っ直ぐな愛の言葉も、すべてがめんどくさくてどうでもいいと思うことも、人間の内面にある醜さが見え隠れするようなことも表現できるのがBIGMAMAの音楽だ。直接的になりすぎないようにポップにしたり、壮大な世界観で馴染ませているのもむしろ人間らしい。


私がBIGMAMAを見始めた頃以降は笑顔でみんなに幸せを振りまくようなライヴをしていて、それがBIGMAMAの魅力だった。しかし昔のライヴ映像にあったような笑わない、煽りも歌わせもしない自分勝手とすら感じるようなライヴがBIGMAMAの本来のスタイルなのかもしれない。武道館公演を経てBIGMAMAの中で何かが変わり、それが戻ってきているのではないかと感じた。

でもそれでライヴが悪くなったとは全く思わない。前よりも毒々しさを全面に出すようになり、より日常の汚い部分を彼らにしかできない表現で歌にしている。そしてそれがBIGMAMAの魅力を引き立てている。

 

 

"言葉は確かなものじゃ無い

全て嘘でも構わない
それでも僕ら約束をしようよ"

(「CRYSTAL CLEAR」)


たとえMCで話したことが全て本心でなかったとしてもいい。彼らの本心は全部曲にある。それでも言葉を求めてしまう。それが嘘でもいいから聞きたいと思う。そのうえでBIGMAMAの曲を信じたい。

最後に「行ってきます」と言ってステージを降りていった。アンコールはなし。それでもよかった。彼らを信じて今日ここに来たのは間違いじゃなかったと思えた。


武道館で演奏されなかった恨みを持つ曲たちはまだまだたくさんいる。これからのツアーでBIGMAMAがどうなっていくのか楽しみなツアー初日だった。