沖縄旅行記③-「私」が見てきた辺野古

2月22日(木) 猫の日🐱

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(瀬嵩にあるゲストハウス「海と風の宿」のミャオちゃん。)

 

この日は朝から辺野古のゲート前に行き、座り込みに参加した。ゲストハウスに同じように座り込みへ行く年輩の女性がいたため、その人に同行させてもらった。

ゲート前に着いたのが朝9時。ちょうど工事車両の搬入が始まったときだった。私は抗議が行われているのを道路の反対側から見ていた。

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数え切れないほどたくさんのダンプカーやコンクリートミキサー車が列をつくり、道路は交通渋滞を起こしている。反対派の人々はマイクで呼びかけたり太鼓や銅鑼(?)を鳴らしたり、プラカードを掲げ叫んだりして抗議している。

初めてその光景を見た私の率直な感想としては、抗議する側の方がかなり無茶をしていると思った。たぶん何も知らない人が見たら、反対派は工事の邪魔をしている迷惑な集団にしか見えない。マイクや拡声器を使って叫ばれている言葉も、暴言とまではいかないが決して綺麗な言葉とはいえない。抗議活動の中警備会社の人たちは淡々と搬入と基地内からの搬出を続ける。全てのダンプが出てゲートが閉められるまでに約1時間がかかった。

 

基本は1日に9時、12時、15時の3回工事車両の搬入がある。木曜日や土日はなぜか2回の場合が多く、日によっては工事が休みのときもある。座り込みによる抗議活動の流れは以下のとおり。

搬入時間前になるとゲート前に並んで座り込む↓

中から機動隊が出てきて警告する(工事の妨げになるからどいてください、従わないようなら排除します、的な)↓

工事車両が来る↓

搬入の邪魔になる人を機動隊が「ごぼう抜き」(機動隊が両手両足を掴んで引きずり出す)にして排除、檻のようなものの中に入れる↓

残りの人は警備会社の人が取り囲む↓

ダンプが中に入る、このあたりで檻に入れられた人が解除される↓

中から出てくるダンプが全て出たらゲートが閉じられる

 

搬入の度に反対派の人はゲート前に座り込み抗議をする。その度に機動隊に排除され、檻の中に入れられる。

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(使用前の檻)

 

その日1回目の搬入が終わるとゲート前テントに戻り、勉強会や報告会のような集会が行われた。この日は沖縄県内のいくつかの地域から、抗議に参加する人のためのバスが出ていたため、各地域の代表者からの挨拶があった。署名の協力を募る紙なども配られた。

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(テントの中には辺野古の自然やこれまでの抗議活動、米軍による事故などを伝える写真や新聞記事を掲示したコーナーもある。)

 

次の搬入を待つ間、人々は昼ごはんを食べたり交流したりして自由に過ごしている。抗議の参加者はほとんどが年輩の方で、若い人は20代後半くらいの女性が1人と小さい子どもを連れたご夫婦が1組と私くらいだった。このような活動に対する若者の関心の薄さをひしひしと感じた。しかし学生や働いている世代の人が平日の朝から行う活動に参加できないのは当然であり、必然的に退職後の年齢の人が増えてしまうのも納得できた。

この日は参加者にミュージャンの方が何人かおられたため、三線二胡が演奏されテントは穏やかな雰囲気に包まれた。またみんなでカチャーシーを踊りながら「辺野古新基地絶対反対」と歌詞に乗せて歌ったりと、終始明るい雰囲気が漂う。

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私はその楽しげな雰囲気を見ながら、なんとも言えない複雑な気持ちになっていた。過酷でつらい座り込みの合間にこのように明るく騒いでいることのギャップがすごかった。辺野古で起こっている問題は深刻である。抗議活動には重苦しい空気ばかりが流れているものだと思っていた。どうしてこんなに明るくいられるのだろう。どうして歌を歌う余裕があるのだろう。そのときはあまり理解ができなかった。

 

この日は12時の搬入がなかった。(抗議活動をまとめている本部が辺野古から離れた工事車両の通り道に見張りを置き、その時間の搬入の有無を調べている。) テントにいた人々は15時の搬入に向けて14時30分ごろから移動を始めた。先程は道の向こうから見ていただけだったが、今回は私も座り込みに参加する。

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(座り込み開始直前の様子。真ん中の紺の車が移動しゲートが開く。すでに座り込んでいる人が何人かいる。2月24日撮影)

 

コンクリートブロックに木の板を載せたベンチのようなものに座るのだが、私が向かうとゲートの正面の最前列しか空いていなかった。初座り込み参加なのにかなり目立つ場所に来てしまってドキドキした。

 

私が初参加だからかわからないが、今回マイクを持つEさんという女性が抗議活動の流れを説明してくださった。また「こんなことをして何の意味があるのかと言う人がいるが、私たちが座り込まなければいつでもダンプが入ることができて工事の進行はもっと速くなる。だからこうして毎日座り込んで時間稼ぎをしながら、工事を止める努力をしている」ということを教えてくださった。これを聞いて私はかなり納得できたし、この活動の意味を見いだせた気がした。

道路に座り込む自分の間近を通り過ぎていく一般車両。ゲートの前に待機するサングラスにマスクの警備員。私はかなり緊張していた。このあと機動隊の大人の男性に引きずり出されると考えるだけでも怖かった。するとEさんはマイクでこのように呼びかけた。

「あと数分で工事車両が来ます。この数分間は誰だってドキドキするし怖いと思います。だからそういうときはみんなで歌いましょう。」

ミュージャンの方の三線がゲート前に鳴り響き、演奏されたのは『安里屋ユンタ』。有名な沖縄民謡で観光客向けの沖縄料理店などでもよく演奏されているものだ。私は観光旅行で沖縄に来るたびに、この曲が本当に楽しく歌われるのを聴いていた。まさかこの曲をこんな場所で聴くことになるなんて。私は胸が詰まって歌えなかった。前日に聞いたひめゆり学徒隊の話が頭をよぎった。つらい病院壕生活の中、歌うことでつらさを紛らわそうとしたという姿がゲート前の人々と重なった。道路に座り込んでプラカードを持ち、手拍子をしながら『安里屋ユンタ』が明るく元気に歌われた。それは今まで聴いた中で一番悲しい『安里屋ユンタ』だった。私はもう涙を堪えきれず、真ん中から端の方に隠れるように移動した。ちょうど道路の向こうからダンプがやって来たときだった。涙が止まらなかった。

移動してきた場所は機動隊に排除されない場所だった。それでもいつの間にか私と近くにいる人は警備員に取り囲まれていた。泣いている場合ではないと思い立ち上がってプラカードを掲げた。先程まで私がいた場所の近くにいた人が、次々と機動隊に排除されていく。両側から腕を掴まれ、足で粘ろうとすると足も持たれ、抵抗してもどんどん運び出されていくのを間近で見た。Eさんは道路の反対側からマイクで「乱暴はやめてください」「機動隊は本来の仕事に戻ってください」「違法工事をやめろー」と呼びかけ続けていた。

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抗議側の人は「非暴力」だが「無抵抗」ではないという姿勢をとっている。機動隊や警備員に向かってかなりの暴言を言う人もいれば、静かに罵る人もいる。それに対して機動隊や警備員はなにも言わないしなにも反応しない。この状況がひどく悲しかった。見ず知らずの人に向かって投げつけられる暴言に心が痛かった。 私は機動隊の人にも警備員の人にもなにかされた訳ではないし、なにか言われた訳でもない。なにも恨む理由なんてない。だから私はなにも言わずにプラカードを掲げ続けた。それでも飛び交う暴言と無表情の機動隊の姿に涙が絶えず流れた。

たしかに機動隊や警備員にこちらの主張をぶつけたところで、工事が止められる訳ではない。それでも基地建設に反対するためには、私たちを阻止しようとする目の前の人に抵抗するしかない。基地建設を決めた人でもない、米軍でもない、名前も知らない人に向かって抗議という罵りの言葉を投げつけないといけない。1日2回~3回、毎日これが行われるのに対処している機動隊、警備員の人たちはどのように感じているのだろうか。老害が騒いでうっとおしいぐらいにしか感じないのだろうか。もう毎日のルーティンになってしまっているのだろうか。自分たちが今している仕事を、自分の子どもたちに自信を持って言えるのだろうか。

ひどい言葉は言われた方も言う方も傷つく。私たちだってやりたくてこんなことをやってるんじゃない。辺野古移設がなければ、いやそもそも米軍基地がなければこんなことをする必要なんてないのだ。間違った工事に反対するためにはこれしか私たちにはできない。

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過積載のダンプがどんどん基地の中に入っていくのを見ながら、そんなことをずっと考えていた。その間も抗議の声は止まない。元高校教師だという白髪のおじいさんが、基地の中に向かって叫びつづけていた。今回もダンプの搬入と搬出が終わるのに1時間ほどかかった。

 

私はあまりにもずっと泣いていたのでもしかしたら変に思われたかもしれない。機動隊が怖かったからではなく、見ず知らずの人同士でこんなにもいがみ合わなければならない状況が悲しかった。人ってこんなにも分かり合えないのだと感じた。こんな経験は実際に辺野古に行かないと絶対にできなかった。

 

様々な気持ちを抱えてゲストハウスに帰った。宿泊客の人が辺野古から帰ってきた私たちにもごはんを用意してくれ、その優しさが身に染みた。この旅で良かったのは、しんどい中にも必ず安らぎを持つことができる環境だったことだ。

 

つづく